代表インタビュー

代表の経歴と事業への想いについてお話を伺いました

おふく代表 米子香苗の近影

株式会社Para ti (パラティ) 経営理念

  • 年齢や障害の有無にかかわらず、誰もが幸福を追求することができる地域づくりに貢献する
  • 一人ひとりが望む《あたりまえの暮らし》のために、既存の制度にとらわれない支援を実践する
  • 介護福祉にかかわる人が、誇りと自信をもって働くことができる地域づくりに貢献する

 

ケアの心得

 

専門家である前に、ひとりの人として感じることを大切にしよう

 

その行動は、何のためか、誰のためか、考えよう

 

ほほえんで、ときめいて、やすらいで、今この時を紡いでいこう

 


肌身で感じた医療・福祉の現場のおかしさと向き合って

ー 株式会社Para ti が上記の経営理念を掲げているのはどんな想いからですか?

私の長男に障害があるということが大きいと思います。子育て中に体験した経験、当時の想いや考えたことがベースになっていますね。

 

もともと私が看護師になったのは、病気の人や困っている人の役に立ちたい想いからでした。しかし実際、自分の子供が障害児である現実に向き合ったとき、全然わかっていなかったな、と気づきました。

 

ー 「全然わかっていなかった」とは?

医療とか福祉は病気・障害などで困っている人のためにあるのだ、と素直に思っていました。しかし、実際に障害児の親になってみると、おかしいと思う経験の連続で。決まり、規則、制度があって、そこから1mmでも外れると融通がまったく効かないのだと知りました。「いや、そうじゃなくて。うちの子はこれに困っています」と伝えても通用しないことだらけでした。

 

ー たとえばどんな出来事があったのですか?

30年前はまだ子供の医療費が今ほど優遇されていませんでした。障害をもつ子供の家庭は医療費が大変だったんですね。障害者手帳を申請すると、医療費が補助されたり無料になったりします。しかし、申請して少しでも医療費を助けてもらおうとすると「あなたは自分の子供を障害児だと決めつけることになりますよ。それでいいんですか?」なんて言われるんです。

 

ー それは誰から言われるんですか?

ドクターからです。ショックですよね。他にも「あなたは素人でしょ。専門家のいう通りにしておけばいいんだ」とも常に言われ続けてきました。

 

他にも、双子だったので兄弟同じ小学校に入学するのは自然だと思っていたのに、「障害児なんだから障害児の学校へ行くものですよ」と言われたのは大きかったですね。知識として知ってはいましたけれど、実際自分が当事者になってみると理解はできなくて。かなり戦ってしまいました。

 

介護と車椅子

ー 医療費を申請するときは「子供を障害児と決めつけるんですか?」と言われるのに、小学校に入学するときは障害者の学校を強制的に選ばされる。なんか矛盾していますね。ルールにもとづいてそうなってしまうのですか?

そうなんですよね。いろいろな方に相談したり、お力をお借りしたりして、地域の普通の小学校には入学できました。でも、それはそれで、おかしなことをしてしまったという感じでした。

 

入学時、ある先生から「この学校は障害児のためのお金は一円もありません。すべて親であるあなたが対応してください。」と言われました。「制度に従っていないあなたがおかしいので、すべて自分でやってくださいよ。」と。授業中もずっと待機して介助していました。

 

ー 入学前も入学後も様々な困難があったのですね。米子さんが制度や常識とされることに屈しなかったのはなぜですか?

単純に理解ができなかったからです。一緒に暮らしている双子の兄弟で、近所に友達もいる。なぜ同じ学校に行ってはいけないのか?

 

「障害のある子供は迷惑」という風潮はありました。「息子は迷惑をかけていて手がかかる。だから申し訳ありません。」と。でも学校にいる間、息子は移動に関して支障があるだけです。本人は、先生に反抗したり、友達に意地悪したりすりするわけでもない。それなのに、存在自体が迷惑っていう風に見られてしまうのはどういうことなんだろうと思っていました。

 

もちろん、学校関係者の全員が同じ考えではありませんでした。学校に通い始めると多くの人が支援してくれました。段差をなくすための台を手作りしてくれた用務員さんもいました。お友達は、もちろん助けてくれます。そんな皆さんのおかげで続けられたということもあります。

 

おふくの家 金柑

「あたりまえの暮らし」の実現を目指して

ー今のお話は30年前の出来事ですが、多様性とかけ離れた対応は今も昔も社会のあちこちにありますよね。

たくさんありますね。看護師をやめてNGOで活動していた時期があります。その関係で、唯一の海外体験として2週間くらいロンドンへ行く機会をもらったんです。

 

こんな経験は二度とできないからと思って、中学生になった長男も車椅子で一緒に連れて行きました。

 

現地で生活しているうちに、ロンドンの人々の対応について息子があることに気づきました。人によけてもらわないと車椅子が通れない場面でのことです。日本では、背中を向けて逃げるように避けられる場合が多いんです。私たちは恐縮して「すみません、すみません。」と言いながら通るのが普通でした。しかし、ロンドンでの対応は真逆なんです。よける時にこちらを向いて、にっこりしながら「どうぞ!」と身体を開いてくれる感じなんですよね。日本とはものすごく違うなと感じました。

 

当時のロンドンでは、設備面でバリアフリーが進んでいるわけではありませんでした。でも日本と違って、どこからともなく支援の手が出てくるんです。たくさんさりげなく助けてもらい、ロンドンと日本ではこれほど違うんだとびっくりしました。日本にいると、障害者や高齢者は普通に暮らしているだけで人に迷惑をかけていると思わされちゃうんだと思いました。

 

ー 日本の状況はちょっと悲しくなりますね。

子育てがひと段落して、看護師として20数年ぶりに職場に復帰したときも悲しかったです。復帰するまでに私の中でいっぱいに膨らんでいた看護や介護の理想とはまったく違いました。

 

2000年に介護保険制度が始まっていて、私自身は夢や理想に胸膨らませて仕事に復帰しました。でもやっぱり、「困っている人が我慢し、お願いして助けてもらう。税金使って迷惑かけてお世話してもらう。」という現実をものすごく感じました。「あ、20年前と全然変わってない。」と思ってしまいました。

 

ぼけたりオムツになったりして介護が必要になることが、社会にとって迷惑なのだという雰囲気を強く感じました。決められた制度の中に、自分がハマって支援してもらうしかない。規格外のお願いをすると、「無理です。公平じゃないから。」「あなたにだけ特別対応できない。」と言われます。

 

ー だからこそ「既存の制度にとらわれない」が経営理念に入っているのでしょうか。

そうですね。介護保険の制度があるおかげで助かることもいっぱいあるのだけど、そこからこぼれる人は必ずいます。あるいは、制度にはまりたくない人もいるんです。でもそれは一般的に「わがまま」と捉えられます。「私はそういう生活がしたいんじゃない!」という言葉は通じないんです。

 

看護や介護の現場では「事業者にとってマイナスになってしまうから、必要以上に手を出してはいけない」と言われる場面がたくさんあります。私はどうしてもそちらに目がいってしまうんです。

 

制度にはまらない、はまりたくない人のために、ピンポイントで必要な支援を必要なだけする。それなら私一人でもできるかなと思ったのが、今の会社を立ち上げるきっかけになりました。

 

介護研修の集合写真

介護や福祉に関わる人々に「誇り」と「自信」を

ー 経営理念の中には、介護・福祉に関わる人への想いも入っていますね。これに関してもお伺いしていいですか?

「介護福祉にかかわる人が、誇りと自信をもって働くことができる地域づくりに貢献する」ですね。

 

看護師として仕事復帰したときに、はじめて介護職の人と身近に接しました。私は昔の大学病院の勤務経験しかなくて、介護職の人と一緒に仕事する機会がありませんでした。私の第一印象は「なんでこんなに自信がないんだろう?」と不思議な気がしたんです。介護職の方々がいないと現場は成り立たないわけですから、もっと胸張って仕事すればいいのにって。

 

制度中での介護に対する位置付けが低い。そして、介護の仕事に対する社会的評価も低い。本人たちも、「低く見られている仕事」というイメージを持った状態で介護職に就いてしまっている。そして「自分たちは勉強が足りない、知識がない」「だからダメだ」って実際の現場でよく聞くんです。私からしたら、看護師だって、みんながみんなナイチンゲール精神を持って働いているわけではないですよ、って思うんですけど。

 

現場で感じた怒りが起業への契機に

ー ご自身で会社を作ろうと思ったきっかけを教えてください。

看護師の現場って難しいなと思って、一旦2010年に現場を離れたんです。他にもいろいろ理由はあったんですが。

 

もともと産業カウンセラーの資格を持っていて心理学にも興味があったので、カウンセリングとか働く人のためのメンタルヘルス研修をやっている会社に入りました。そこで研修の講師を始めました。

 

講師の経験を積んでいくうちに、「やっぱり現場がいい」と心境に変化が出てきたんですよね。病気や障害を持って、今日どうするかという生身の人と関わるところで自分は働きたいと思ったんです。

 

ー そうだったんですね。それが理由で会社を作ろうと思われた?

実はその頃、起業へ突き進むもうひとつの大きな出来事がありました。

 

障害をもつ長男が病気で入院することになって、私は付き添いとして病院へ通うことになりました。現場で働きたいと思っていたのに「なんだこれは?」と思う経験があって。怒りに火がついてしまいました。

 

病院側の人たちは、とにかく患者を見ません。目の前の本人を見ず、病名と書類だけ。リスク管理と防衛は徹底していますよ。入院や手術の手続きのようなマニュアル通りの説明だけはわーっと洪水のようにくるんですが、そこに「目の前の患者」の気持ちや事情への配慮は出てこないんです。

 

「見えてても見ないんだ」と思いました。

 

息子は脳性麻痺で障害者手帳を持っていて電動車椅子に乗っています。見たらわかりますよね、っていうレベルです。でも、そこには一切触れないんです。

 

息子は、ある程度のハードが整っていなければ一人でトイレを使えないんですよね。でも「トイレどうしましょう?いつもどうしていますか?」とは最後まで聞かれませんでした。こちらから切り出さなければ何も言わなかったです。そもそもベッドに上がれないのは見てわかるはずなのに。

 

「患者側から言わないと何も手が差し伸べられない」っていう事実がものすごく衝撃的で。

 

リストバンドで名前の確認は徹底しているのに、顔は見ない。リスク管理は必要ですが、「まず顔を見て!」って思いました。防衛が前面に出ていると私は感じてしまいました。「こんなんじゃダメだ!自分でなにかやる!とにかくやれることをやるんだ!」って思って、すごくめちゃくちゃなんですけど、会社を設立しました。

 

おふくの家での介護勉強会

ほほえみを交わし合う現場を作りたい

ー 今のお話は「ケアの心得」(※インタビュー冒頭参照)に通ずるものがあると感じました。

ケアの心得には、30年前からの経験が反映されています。

 

決められた通りに運ばれてしまう看護も介護も、現場の人はやっていて楽しいのかなと思ってしまいます。「笑顔が大事」って言葉に私は抵抗があるんです。職員に対しても利用者に対しても同様です。笑顔にさせるため必死になって笑顔が消える、みたいなことってよくあるんじゃないでしょうか?

 

ー 「笑顔が大事」は聞こえがいいかもしれないですが、たしかに画一的ですよね。

笑顔にさせるために多くの決まりがあり、やるべき仕事が山積み。必死でタスクをこなす職員さんが笑顔になれるわけないです。だから、職員と利用者が「ほほえみ」を交わし合う時間が必要なんじゃないかなと私は思っています。無理やり参加させたゲームで盛り上がりを演出して笑顔を作るのではなく、ただ一瞬目と目があう、ほほえみを交わし合う。そこに安らぎがあると思います。その一瞬のために、他のすべてがあると思うんです。

 

おふくの家 外観

だれもが主人公になれる「家」

ー「おふくの家」を作ろうと思ったのはなぜですか。

家があった方がいいと思ったのは「どんな最期を迎えるか」について考えたからです。自費ホームヘルプの仕事を始めたばかりの頃、病院から自宅へ帰れず施設へ行くことになった方と出会いました。家族の代わりに付き添う役割を任されたんです。

 

当時は私自身が手探りで仕事をしていました。その方にどこまで踏み込んでいいのかよくわからず、少し引いているところがあったと思います。その方が入る施設に付き添ったとき、施設側のリスク管理が強く前面に出た場面がありましたが、何も行動しませんでした。本当はもっと関わりたいけど深く踏み込んではダメなんじゃないかと、自分の中で迷いがあったんです。

 

結局、その方は施設に入った直後に突然亡くなられました。すぐ命にかかわるような病状ではなかったのにです。このお別れの仕方が、私の中に突き刺さったままなんです。私はもっと手を伸ばすべきだったんじゃないかと。

 

また最近でいうと、コロナ禍である日突然、施設の家族と面会ができなくなりましたよね。私も関わっていた方と会えなくなりました。家族でさえ完全シャットアウトの時期が長かったですよね。

 

コロナ禍を機に家族が意を決して自宅に連れ帰り、自分の家で最期を迎えた方がいたんです。在宅の介護サービスは使うんですが、どうしてもフォローのできない隙間ができてしまうため、私も短期間ですが自費で関わらせていただきました。

 

自宅での最期に関わらせていただいたのは、今回がはじめてでした。そのとき「家の力」ってすごいなと感じました。「おふくの家」をやり始めるにあたって、背中を押してもらったのはそのご家族の存在が大きかったですね。

 

ー「家」というのは設備って意味ではなくて、家族との関係性のような意味合いですか?

そうですね。私は、自宅で介護されているご本人が「家の主人公だ!」と感じました。ご自身では何もできず、すべて周りの人にやってもらっている状態でも、もともとその方の家なので主人公なんですよね。

 

今回の場合、家族には覚悟があったし、迎え入れるお家もありました。でも、家か病院か施設かってなった時、家を選択肢に入れられない方は多いと思うんです。そこの受け皿として、「おふくの家」をやりたいと思いました。

 

「おふくの家」はシェアハウスではなくシェアホームと呼んでいます。存在のしかたや関係性も含まれています。スタッフや利用者のみなさんが「おふくの家」の主人公になり、お互いさまで助け合いながら暮らす家を目指しています。

 

ー今回は貴重なお話をありがとうございました。

おふくの家 地域交流スペース