なちゅは合宿より

2020年は、高知で開催された「なちゅは合宿」参加で始まりました。一般社団法人ナチュラルハートフルケアネットワークの承認を得て、昨年末に「なちゅは愛媛」を立ち上げた仲間たちと一緒に高知に行き、全国各地から集まった皆さんの仲間に入れてもらって勉強して来ましたので、ほんの一部ではありますが、報告します。

 ⇒ナチュラルハートフルケアネットワーク

 

私自身は、「なちゅは愛媛」代表という立場でのデビューという、ちょっと緊張気味の2日間でした(笑)

写真のポロシャツは2018年版です。「愛媛」は見当たらないのですが、ホームページ上の地図には「Ehime」の文字が入っていて、とても嬉しく思いました。感謝。

合宿のメインプログラムは、特定非営利活動法人法人ぽしぶる:宮野秀樹氏を講師にお迎えしたワークショップ。

宮野氏から、日本における障害者施策や重度訪問介護の制度について、そして、その背景にある障害者の権利獲得運動の歴史についての講義を聞いたあと、グループディスカッションを行いました。

宮野氏とは、昨年4月に高松で開催された「合同シンポジウム~障害当事者こそが変える!人手不足の介護現場」で初めてお会いしました。今回、ご挨拶したら覚えてくださっていて、嬉しかった~♡ 感謝。

 ⇒過去記事「介護の現場を当事者が変える」はコチラ

 

宮野氏は、交通事故による頚髄損傷のため重度障害者となり、約16年前から在宅生活を送っておられます。NPO法人を設立し、重度障害者の自立支援、頚髄損傷者のセルフヘルプ活動、工学的支援技術普及活動など、精力的に活動。

今回のお話も、ご自身の体験をもとにした説得力あるもので、身体障害者が外に出て体験する「あるある話」を交えながら、時に笑いを誘ってくださることで、重い内容の話も、わかりやすく入ってきました。

講義の概要をまとめる力量がないので、ケアにかかわる人にとって大事なキーワードで紹介します。

 

 

●支援のための信条 ⇒ YouTubeに日本語版があります

障害者の権利運動家が作成したメッセージ。『私の障害を問題として見ないでください。障害は私の一部です』『私を欠陥人間として見ないでください。私を異常で無力な人間として見ているのはあなたなのです』・・・支援する側にいる人間が陥りがちな「救済と慈悲」に警鐘を鳴らし、「公平と尊重」を求める。メッセージの最後には『今は亡き、トレイシー・ラティマーに捧げます』とある。トレイシー・ラティマーは、1993年 12歳のときに父親に殺されたカナダの少女の名前。重い脳性麻痺の娘を苦痛から救おうとした《慈悲殺人》ということで、父親への同情が集まり減刑運動が起きた。

 

●平等と公平 ⇒ <画像>で検索すると野球観戦の絵がたくさん出てきます

平等(Equality)は、イコール(=)ということで、一律に等しいこと。

例えば、柵越しに野球を見ようとしている身長の異なる3人に、同じ高さの踏み台を一律に《平等》に提供した場合。

その結果、背の高い人は柵から大きく抜きんでた《もっと背の高い》人になり、真ん中の高さの人は丁度いい高さで観戦できるようになり、背の低い人は踏み台に乗っても届かないため高い柵が《障壁》となって観戦できなかった。

 

公平(Equity)は、公正、偏りがないこと。

身長の異なる3人が野球観戦ができるように、高さの異なる踏み台を提供した場合。

背の高い人は、踏み台がなくても十分に見えるので提供しなくてよい。真ん中の高さの人には、踏み台を1個提供すると丁度良い高さで観戦できた。背の低い人には、踏み台を2個提供すると丁度いい高さになって観戦できた。

それぞれに適した対応をすることで、3人が一律に等しく観戦できるという《平等》の状態を生むことができた。

 

●基本的人権

日本国憲法第11条『国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない』(普遍性)。『この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として』(不可侵性)、『現在および将来のすべての国民に与えられる』(固有性:生まれながらに有するということ)。

基本的人権は、国民の義務とは別次元で保障されており、公権力との関係によって保障されるものではない。

 

●障害者の権利擁護

憲法25条の「健康で文化的な最低限度の生活」(生存権)だけでなく、第13条「幸福追求権」まで含む。『すべての国民は、個人として尊重される。生命、自由および幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする』

 

●合理的配慮とは

障害者差別解消法は、「不当な差別的取り扱い(障害を理由に行われる入店拒否、乗車拒否など)」を禁止し、

「合理的な配慮(障害のある人から何らかの対応を必要としているとの意思が伝えられたとき対応する)」の提供を求めている。⇒内閣府リーフレット「合理的配慮を知っていますか?

ただし、『正当な理由なく』や『負担が重すぎない範囲で』など曖昧な表現の条件付けをしている。

合理的配慮とは、やさしさの提供ではない。どうすれば障害者本人の意向を実現できるかを考えること。

 

講義のなかで、障害当事者による権利獲得運動の歴史についても触れられました。今ある制度や公的支援がどのようにして実現してきたのか。ケアにかかわる者として、歴史を知ることの意味を考えさせられました。

日本における障害者の医療福祉、当事者運動などについて、私の本棚から数冊選んでみました。関心ある方は手に取ってみてください。

 

 

●「治療という幻想~障害の医療からみえること」石川憲彦著/現代書館(1988年)

てんかん治療を「ごまかし」、予防医学を「まっさつ」、リハビリテーションを「ぺてん」、療育を「せんのう」として、治療の魔術を解いていく。捨て去られ、操作され、抹殺され続けてきた障害児者。私自身が障害を持つ子の親となったとき、当時の「療育」について疑問を抱いて手に取り、救われた本。著者が東大病院小児科の医師だった頃に存じ上げていたので。

 

 

●「弱くある自由へ~自己決定・介護・生死の技術」立岩真也著/青土社(2000年)

安楽死・遺伝子治療・臓器移植…生と死をめぐる決断をせまられる私たち。自由とは、自己決定とは。1970年代の障害者運動についても詳しく触れられている。子どもの自立と親の介入、福祉サービスの利用などについて迷っていたときに出会った本。

 

 

●「私たち抜きに私たちのことを決めないで~障害者権利条約の軌跡と本質」藤井克徳著/やどかり出版(2014年)

国連における障害者権利条約策定の作業段階から、日本での批准に至るほとんどの場面に関わった著者が、その軌跡と本質について語っている。条約の全文掲載。宮野氏が講義で話されていた日本語訳の文言については、著者も疑問を投げかけている。(条約の批准にあたっては、政府が翻訳したものが公定訳となる)

 

 

●「母よ!殺すな」横塚晃一著/立岩真也解説/生活書院(2007年)

日本の障害当事者運動を牽引した「青い芝の会」の横塚氏(1935年~1978年)が遺した著作に、未収録だった文章や発言、追悼文や年表などを大幅に加えて復刻した本。本のタイトルは、活動を大きく変容させるきっかけとなった事件(1970年、障害をもつ子を母親が殺害)に際して起きた減刑嘆願運動に反対したことから来ている。『障害者運動とは障害者問題を通して「人間とは何か」に迫ること、つまり人類の歴史に参加することに他ならない』『泣きながらでも親不孝を詫びながらでも、親の偏愛を蹴っ飛ばさねばならない』 

 

 

●「われらは愛と正義を否定する~脳性マヒ者 横田弘と『青い芝』 」横田弘/立岩真也/臼井正樹/生活書院(2016年)

障害児殺しの母親の減刑嘆願に異議を申し立て、養護学校義務化に反対し、川崎バス闘争を闘った主張の真意は何か。脳性マヒ者として闘い続けた横田弘(1933年~2013年)の実像に迫る。本のタイトルは、青い芝の会・神奈川県連合会の行動綱領『1.われらは自らがCP者であることを自覚する 2.われらは強烈な自己主張を行う 3.われらは愛と正義を否定する 4.われらは問題解決の路を選ばない』から来ている。『権利はいつから擁護されるようになったんだ。権利は獲得すべきものであって、もしくは保障されるべきものであって、われわれ障害者の権利がいつから擁護されるものになったんだ』

 

 

●「こんな夜更けにバナナかよ~筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち」渡辺一史著/文春文庫(2013年)

進行性の難病・筋ジストロフィーを抱えながら自立生活を送った鹿野靖明氏(1959年~2002年)は、人工呼吸器を装着し、ほとんどすべてのことに他人の手をかりる。仕事でも義務でもなく《ボランティア》で彼のもとに集まる若者たちとの交流を描いたノンフィクション(2003年発行)に、ボランティアの人々の後日譚を加えた文庫版。『人が人を介助するって何なんだ。ワガママって、いったい何なんだ。』仕事だから仕方ないという言い訳が成り立たない《ボランティア》は、たえず自分自身に問いかける。私自身は、子どもの《自立生活》をどうするのか模索していたとき、役所の福祉担当者が軽く言った「ボランティアに頼めば?他のお母さんはそうしてる」の一言に愕然としたことがある。親として、ボランティアに子どもの命を託すという選択はできなかった。親の感覚でしか読めなくて、修行が足りないなあと凹んだ本。

本書のあとがきによると、鹿野氏の母上のもとには、元「鹿ボラ」たちが集い続けているという。

この3冊は、2016年に相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で起きた殺人事件以降に出た本。

 

●「なぜ人と人は支え合うのか」渡辺一史著/ちくまプリマー新書(2018年)

「こんな夜更けにバナナかよ」の著者が、あらためて障害や福祉の意味を問い直し、人と人が支え合うことについて思索する。『障害者に「価値があるか・ないか」ということではなく、「価値がない」と思う人のほうに「価値を見出す能力がない」だけじゃないか』(人工呼吸器を使用しながら暮らす人たちをおったドキュメンタリー映画「風は生きよという」を紹介した章より抜粋)

 

 

●「この国の不寛容の果てに~相模原事件と私たちの時代」雨宮処凛編著/大月書店(2019年)

命の選別は仕方ないのか?沈みゆく社会で、それでも「殺すな」と叫ぶ、命をめぐる対話集。

 

 

●「どうしてもっと怒らないの?~生きづらい『いま』を生き延びる術は障害者運動が教えてくれる」荒井裕樹対談集/現代書館(2019年)

著者は、晩年の横田弘氏から「どうして荒井君は、もっと怒らないの」と何度か問われたことがあるという。『人間の尊厳が目減りしていくことへの危機感が足りない』と諭されていたようだという。かつて、障害者たちが理不尽な差別に対して怒り、身体を張って闘ったことがあったこの国で、今、何が起きているのだろうか。

 

「日本国憲法改正草案」(自民党による)をご存知ですか?

現憲法に明言されている「基本的人権」に関する重要な文言が削除されているのを知っていますか?

ぜひ、調べてみてください。

 

合宿を経て、まず私ができることとして、本の紹介をしてみました。

「なちゅは愛媛」としても、当事者と共に活動するしくみを模索しようと話し合いました。

 

最後に、もう一冊。

「ケアの宛先」雲母書房(2014年)鷲田清一氏の言葉から。

『ケアのプロフェッショナルというのは、患者さんとか、高齢者の方との対応の中で、いつでも自分の専門的な知識や技術を棚上げできる準備があるってことなんで、ぼくはそれがプロの条件だと思っているんです』

専門性について考えさせられ、突き刺さる。

「ケアの宛先」については、3月14日の読書会でとりあげます。

 ⇒ 読書会についてはコチラ

関心ある方は、ぜひこの本も手に取ってみてください。