『死は大きな出来事である。と、同時に大小様々のいろんなことが起こり、一切が過ぎていく。その過ぎていく一切が、大きなできごとにつながっていく。私は深い混乱のなかで、なにを話したらよいのかわからない』(町田康「猫のよびごえ」より)
芥川賞作家・町田康と猫たちとの日々を描くフォトエッセイシリーズ4冊を再読しながら、子ネコとの最後の2週間を過ごしていた。
猫に呼ばれるように、次々に出会っていく町田さんの奮闘ぶりに励まされながら、別れの覚悟もしていた。
猫の寿命は人間よりずっと短いのであるから、病気を持っていなかったとしても、先に逝ってしまう。
町田さんの場合、傷ついたり命の危機に瀕している子ネコをそのままにできず連れ帰ってしまったり、保護活動をしている所から病気の子をやむにやまれず預かったりするものだから、激しい出会いと別れのくりかえしだ。
もの言わぬネコに代わって医療の選択をし、その意思を慮りながら、生きるためのケアを試行錯誤していく。
殴られたり蹴られたりして人を怖れるようになったクランは、人が触れることができないので里親に出せないまま町田さんが預かることになる。
触ったり抱いたりはできないけれど、人を恨んだり憎んだりはしないクラン。
『「そっとしておいてください」と言っているように、ただ静かに、みんなと離れたところに座っていた』クランは、他のネコたちと静かに5年をすごしたあと、突然に逝ってしまう。
『いろんなことが変わっていく。時間が過ぎていく。やがて私も死ぬ。そのときまで、こうして、みんなが生きていたこと、生きた時間を書いていきたい』
小さな白ネコゆきちゃんとの濃密な時間のあと、2匹の暮らしのペースが戻ってきたら、以前の何倍もこの子たちが可愛いので困っている。
なかなか出かけれなくて困っている。
なんて可愛いの~♡と思うほど、そこにいない小さい子のことが何十倍もかわいそうで悲しくてたまらない。
そんなときは、大島弓子「キャットニップ」を開いて、小さなものの死を見つめ、悼み、ケアすることを学ぶ。
「キャットニップ」は、死を免れることはできない命の物語だ。
グーグーの死後、キジタローというネコが、グーグーと全く同じ行動・しぐさをしていることに気づく場面がある。
しばらく続くのでグーグーの代わりをしてもらったのだけれど、いつのまにかしなくなる。
寂しいけれど、キジタローはキジタローでいい。
同じことがウチでもおきた。
姉さんたちには不評でお蔵入りしていたオモチャを試しにゆきちゃんに与えてみたら、これが大当たりして一人遊びで熱中してくれた、ということがあった。
一番のお気に入りは棺の中に納めたのだけれど、そのまま出しっぱなしになっていたオモチャ。
「あれ? あの音は? えっ? なっちゃんが遊んでいる⁉」
しかも、オモチャを持ち込む場所も、遊び方までそっくりだった。
なっちゃんのそんな可愛らしい(笑)遊び方は、これまで見たことがなかった。
なんたって「やんちゃ姫」「破壊神」と呼ばれている二女だから(笑)
何度か見かけた可愛らしい光景も、たぶん1週間くらいのち、ふと気づいたら終わっていた。
ネコって不思議。
私は、同じ屋根の下で生活を共にした人を亡くした経験が、まだない。
食べること・出すこと・遊ぶこと・眠ることを共にした命が、いなくなるとはどういうことなのか。
2か月と少しの短い間だったけれど、どこを見ても、もういないのに、そこにいるように見えてしまう。
見てしまう、というほうがいいのか。
記憶ってすごいなと思う。
出かける私のほうを、背中をピッと伸ばして「気をつけ」の姿勢をして「行っていいよ、ちゃんと待っているよ」と言ってじっと見ていた、けなげなまなざし。
布団の中に潜り込んできた、小さくて柔らかいぬくもり。
会いたいなあ。