「進行を遅らせる」への違和感

年度初めから認知症に関する研修の仕事が続きました。

「認知症について知りたいのはどんなこと?」と聞いてみるのですが、最近気になるのは「認知症を予防する方法が知りたい」や「認知症の進行を遅らせる支援を教えてほしい」という反応です。

高齢者とほとんど接したことのない新人からベテラン職員まで、予防と進行抑制に興味関心があるようです。

国をあげて行っている認知症キャンペーンの成果なのでしょうか…。

「介護職として利用者や家族を認知症の苦労から守らなくては」という職業意識のようなものに、違和感を抱いてしまう私です。

 

2015年に出された『新オレンジプラン』は、介護現場の能力を高めるために、医療の専門性を活かした後方支援と専門医による司令塔が重要であるとされました。

2019年の『認知症施策推進大綱』では、70歳での発症を10年間で1歳遅らせるという数値目標が掲げられました。

加齢という時間の流れに抗い、細胞の老化と言う変化を阻止しようという医学の研究に、介護の現場が同調してしまったら…。

現に目の前にいるお年寄りに、いったいどんなまなざしが向けられることになるだろう。

 

曜日も時間もわからなくなってきた、その人の「脳」のなかでどんなことが起きているのか。

その「医学的知識」をもつことは必要かもしれないが、絶対条件ではありません。

「医学的知識」があれば「理解」の助けにはなりますが、その人という「他者」を理解することなど所詮は不可能です。それに、「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」という余白を残したほうが、お互いに楽です。

 

「かかわるお年寄りが認知症にならないように」「このお年寄りの認知症が進行しないように」支援しなければという思考の根本には、認知症や認知症の進行を「よくないこと」とする価値観があります。

少なくとも、気の毒な人だという哀れみの気持ちが。

そんな話をすると、たいていの場合はハッとした顔になって、知らず知らずのうちに上から目線になっていたことに気づいてくれます。

 

自費ホームヘルプで自宅を訪問していた方がホームに入られて、一緒に過ごすようになりました。

長く一緒にいるようになると、確かに「認知症」と言われる部分がよくわかるというか、訪問だけではわからなかった具体的な現象と全体像がわかるようになりました。

と同時に、どこが「認知症」なのかよくわからなくなることも多々あります。

まさに〇〇さんという名前の一人のひとがそこにいて、「認知症」というのは、その人の一部分にすぎないんだなというのが実感です。

ときどき、びっくりさせられることもあるのだけれど。

 

何に困っているのかな、どこかしんどいのかな、どんな気持ちなのかな、なんだかちょと楽しいみたい、今は話しかけないほうがよさそうだな、ちょっと誘ってみようかな…。

その合間に、食べることや排泄のことがあって。

新しい環境で、食べることや排泄のことを一緒に整えていくなかで、新たな人間関係を築いていっているような気がしています。

 

「進行を遅らせる」支援を考えるのではなく、その人にとって、今が少しでも心地よい時間になるように。