気持ちと<記憶>の不思議について

自費ホームヘルプの利用者だった方から預かっているアマリリスが、今年も見事に咲きました。

(事情で施設入所を選択したときに「あなたに預ける」と言われたもの)

そしてなんと、おふくの家の前庭にも同じ種類のアマリリスが植えられていたことがわかり、不思議なご縁を感じたことでした。

この数年間の様々な出会いとお別れがシェアホーム開所につながっているのですが、ある利用者さんとの間におこった最近のできごとをふりかえりつつ、人の気持ちと記憶の不思議について考えてみました。

ひとり暮らしのその方とは、もう5年以上のお付き合い。

何かあったときのためにと家の鍵も預かって、お金の管理も任されていました。

介護保険の利用はしたくないという意向を尊重してきましたが、昨年くらいから日付や曜日がわからなくなることが増えてきたため、公的支援も備えておこうと話し合いを重ねました。

私が信頼する事業所の訪問ヘルパーさんにつなぐことができましたが、夜に活動することが増えて、昼間うとうとしていることが多くなり、訪問しても応答なければ、私が合鍵を使って入るようになっていました。

ある日のこと、合鍵を使って入った私を見たその方は、「あなた誰?」「なんで鍵を持っているの?」と言ったのでした。

どんなに説明しても、「あなたはヨナゴさんじゃない」と言うのです。

ヨナゴという人物に関する記憶は確かで、信頼も変わっていない様子なのですが、目の前にいる人物がヨナゴだとは認めてくれないのでした。

困り果てて「ヨナゴさんに頼まれて来た」なんていう芝居もうってみたのですが、「ヨナゴさんが私に黙ってそんなことをするはずない!」「警察を呼ぶ!」と言われた段階で、丁重にお詫びを伝えて家を出ました。

さすがの私もショックに打ちひしがれつつ車に乗ろうとしていた時、携帯に電話がかかってきました。

たいへんなことが起きている、怖いから助けて!という内容でした。

引き返したときには、「あなた誰?」とは言われませんでした。

 

その後も「警察を呼ぶ」と言われる事態になったことがあるし、ヘルパーさんの顔がわからなくなることもあるようです。

でも、記憶の中のヨナゴやヘルパーさんへの信頼は変わっていないようなのです。

見えている情報が脳の中に結ぶ像と、記憶がつながらないのはどういうことなのでしょう。

記憶の中の像を取り出せないのか、像そのものが失われてしまったのか。

つながっているように思えるときもあります。

まるで出会ったころと同じように、電話がかかってくることもあります。

もしかしたら、新たな「ヨナゴ」や「ヘルパーさん」に出会い、新たな関係ができてきているのかもしれません。

この数ヵ月、びっくりしたり慌てたりすることもたびたびで、毎回ドキドキです。

どこまでも、今ここの本人の気持ちを尊重して一緒の時間を過ごそうとしていることが伝わるといいのですが。

 

「あなた誰?」と言われた原因を考えてみました。

本人の意向とはいえ、私一人だけが関わり続けることへの疑念や、本人にとって本当にそれでいいのかという迷いや不安、私自身の気持ちの揺らぎが影響してしまったのかもしれません。

老いに適応しようと奮闘している人から、自分の覚悟のなさ、情けなさを教わりました。

 

「これもできなくなった」「あれもわからなくなった」「もう情けなくて悲しくて」そんな嘆きに反応して、ついつい私自身が楽になろうとしていました。

 

「一人を守り続けてきた家の中に他人を入れるのは嫌」「でも仕方ないのだ」と、老いていく自分と折り合いをつけての決意への敬意が足りなかった気がします。

目で見えている像と、記憶の中の像を接続しないことで尊厳を守ろうとされたのでしょう。

 

いっぽうで、目の前の人たちを受け入れたら今の暮らしを維持できるという理性は、目の前の人たちへの新たな信頼から生まれたのかもしれません。