「触覚」は「距離マイナス」だという発見

気がつけば6月もなかばで、雨上がりの紫陽花がまぶしい季節。12日の「ゆるふわ読書会」は、『手の倫理』2回目(第2章)でした。

オンライン開催も2回目で、順番に音読して感想を話し合いながら進めたのですが、声に出して読むのって気持ちいいなあと、今さらながら思いました。

学校の授業で順番に読まされるのって、好きじゃなかったんだけど(笑)

ご参加ありがとうございました。

次回は7月10日で、第3章をとりあげます。

 

 

第1章「倫理」は、本書のタイトルになっている「倫理」についての考察でした。

「道徳=普遍」「倫理=個別」という話から、多様性という言葉の危うさに発展していきます。

 

「道徳=普遍」というのは、「困っている人がいたら助けるべきだ」「嘘をついてはいけない」など、『その人の能力や状況によらない正しさを示す』ものだという意味です。

つまり、『「すべきだができない」というジレンマが発生する可能性』は存在しないので、すべきことをしなかった人は「なぜしなかったのか」と非難されることになるのだと著者は言います。

 

これに対して「倫理」には、「すべき」とは別の「できるかどうか」という判断が入る余地があります。

「嘘をついてはいけないのはわかっているが、真実を伝えると相手を傷つけてしまう、私にはできない」という状況に陥り、迷い悩むときに問題になるのが「倫理」であるということです。

人は、その迷いのなかでも『自分なりの最善の行為を選ぼう』として考え抜くのであり、『この迷いと悩みのなかにこそ、現実の状況に即する創造性がある』のだと。

これはまさに、ケアの現場に通じるものだといえるでしょう。

 

著者はまた、本書において『言葉に寄りかからず、具体的な状況の中で考える』ことを重視している背景について、「多様性」という言葉が氾濫していることへの違和感をあげています。

多様性という言葉に寄りかかりすぎると、「視覚障害者だから」「発達障害だから」などのラベリングになってしまいかねないと警鐘を鳴らしているのです。

「倫理」ではなく「道徳」において、ある個人が『一般化された障害者』に組み込まれてしまう危うさ。

ひとりの人の中にある「無限」の可能性(=多様性)こそを大切にという著者のメッセージに深くうなずきました。

 

第2章「触覚」では、『目ではなく手を介した人間関係とはどのようなものか』という問題に向かうために、特に「距離ゼロ」という触覚の特性について考察しています。

著者は、触覚の特性について、①距離ゼロ…対象と物理的に接触する感覚である ②持続性…部分を積み重ねるため時間がかかる ③対称性…さわる主体がさわられる客体にもなる の3つをあげています。

②は「ふれながら関わる」というコミュニケーションの問題として第4章へ、③は信頼の問題として第3章でとりあげられます。

①「距離ゼロ」は、視覚(見る)や聴覚(聞く)と違って、対象と直接に接触する感覚であるという意味です。

しかし、触覚から得られる情報について見ていくと、実は「距離マイナス」なのではないかと著者は言います。

 

そっと表面を撫でたり、ちょっと圧をかけて押して見たり、手のひらで包むようにしてみたり、さわり方/ふれ方しだいで、対象から引き出される性質は変わります。

たとえば、大福餅の表面をなでるようにふれれば乾いた粉っぽさを感じ、そっと指でつまんだときには柔らかさを感じるというように。

 

さらに、人が人にふれるときのことを考えてみると、相手の人の肌の柔らかさといった表面的・物理的な性質だけではなく、『いままさに相手がどうしたがっているのか、あるいはどうしたくないと感じているのか、その衝動や意志のようなものにふれることができる』のが触覚です。

このように、触覚は『対象の内部にある動きや流れを感じ取る感覚である』という意味で、「距離マイナス」なのです。

 

膝に乗ってきてゴロゴロと喉を鳴らすネコを撫でている、「至福のとき」を思います。

ネコの温かさや柔らかさやゴロゴロの振動は、ネコの内部から伝わる「生命」や人間への「信頼」でもあります。

私自身の体温や内部からの「至福」は、私の手からネコへと伝わっていることでしょう。

ふれている手や膝の触覚は、『表面ではなく奥』へと向かうベクトルであり、まさに『他の対象との区別や比較ではなく、その一つの対象への没入』なのでありましょう。

 

いよいよ次章の「信頼」は、「ふれる」「ふれられる」という具体的な状況、主体と客体の関係性に入っていきます。

ケアの現場にも大いに関わる内容で、楽しみです。