自分で見ようとしなければ

週に2回ほど、実家の買い物をして一緒に昼食をとるようになって7ヶ月が過ぎました。

もともと「疎遠ではないけれど仲良し親子でもない」という関係でしたので、私の実家滞在時間は1回2時間を越えることはありません。

母のマシンガントークをあしらったり夫婦の間をとりもったりする私の精神衛生のために、2時間までと決めています(笑)

そんな実家通いの近況報告です。

「年をとるのがこんなに辛いこととは思ってもいなかった」

「あれほど健康に気をつけてきたのに、何で私がこんな目に」

「●●さんは、私より年上なのになぜ元気なんだ」

「△△さんみたいになるくらいなら死んだほうがましだ」

 

 

理屈も道理も慰めも通用しないので、これくらいはスルーできるようになりました。

食事をとっている間も一人でしゃべり続け、父と私は、ほぼ無言です(笑)

 

過去を嘆き未来を憂うのは人間の得意技ですから。

 

 

最近、新たな反応が出てきて面白い。

 

細かく指図されるのが嫌なので調理は避けていたのですが、つい仏心で作ってしまったとき、

「ぱっぱと作ってすごいなあ、私なんか・・・」

 

台所の流しが汚れていたのでササッと磨いたときには、

「なんでもできてええなあ、私なんか・・・」

 

 

これには、表情や言い方などの非言語表現で重要なメッセージが付加されています(笑)

「私ができなくなったことを、あなたは軽々やっている」という否定的なメッセージ。

 

 

「おいしいね」とか、「きれいになった」とか、どこまでも言えない人なのでした。

59歳にもなる自分の娘を妬んでどうする!

 

ああ、でも、これも、ずっと若い頃からそうなのでした。

 

 

「あなたにも50歳60歳のときがあったでしょうに」

「ずっと腰の曲がった82歳だったようなことを言いなさんな」

「私もそのうち80歳のときが来るんさ~」

 

そう応じておいて、父がちょっと笑ってくれて、それでいいと思うしかありません。

 

 

自分の人生には何一ついいことはなかったなんて、そんなふうに言いながら終わってほしくはないのだけれど。

 

今ここにある、ささやかで小さな三人のひととき。

自分で見ようとしなければ、何もないのと同じ。

自分から微笑まなければ、相手の微笑みもないのと同じ。

 

親の老いと向き合う時間は、始まったばかりです。