もっと「ありがとう」を

「認知症高齢者とのかかわり方」をテーマにした研修の依頼がありました。

「介護者が対応に困る言動について、どうしたらいいか教えて欲しい」という希望です。

こんなとき、「こうしたら上手くいく」ということを言えたらすごいです。

 

私は、そういうことは言えないので、まずは、参加者の皆さんが実際にやっていることを振り返って考えてもらえるような内容にすることを心がけています。

 

それをしないで、「こうしてみたらどうでしょう?」とは言いたくないのです。

 

自分がやっていることをちゃんと見てみないと、ハウツーの知識になってしまうからです。

 

なので、なかには不満足感を味わっている参加者もいるみたいです。

〇〇〇チュードについて知識のあるらしい人から、まず視線を合わせてからではないのか?と問われたこともあります。

 

どんな知識やスキルも、どんな人が、何のために、どう用いるか、だと思います。

 

視線を合わせるのが目的ではなくて、「あなたの存在を認めている」「大切にしている」、それを表現して伝えて受け取ってもらう方法のひとつであろうと、私は理解しています。

(〇〇〇チュードを勉強したわけではないので、私見です)

認知症高齢者に限ったことではなく、常識のこととして「他人に話しかけるときの作法」や「他人の体に触れるときの作法」があります。

その常識が、<介護する人-される人>になると、どこかに行ってしまっていませんか?

特に、認知症高齢者が相手だと。

 

他人に話しかけたり体に触れたりするときの、あたりまえの作法を守ったうえで、「あなたと私」という関係を築く努力を怠っていませんか?

 

周囲が困ってしまう言動は、認知症高齢者の何らかの意思表示であったり、体の不調のサインだったりするかもしれません。

「ニンチがある」というレッテルを貼って、そのレッテルを通して見ていませんか?

 

相手にとって安全で安心な態度で、静かにゆっくり距離を縮めること。

相手の反応を観察し、待つこと。

あなたの心の中のセリフは、「私はあなたの嫌がることはしません」です。

 

もし、あなたが傍にいることを許してもらったり、一緒に何かすることを受け入れてもらえたりしたとき、声に出して「ありがとう」を伝えていますか?

もっと、「ありがとう」と言ってみましょう。

 

相手のために何かをやって、相手から「ありがとう」と言ってもらったら、それは嬉しい。

けれど、相手からの「ありがとう」を拠りどころに行われる仕事にはしたくない。

「仕事をさせてくれてありがとう」くらいのほうが、いい塩梅でいられるのではないかしら。

そんなことを思う今日この頃です。