『純粋ナースコール』の話

高齢者施設(入所系)の管理者をしている方からの相談です。

 

「頻回にナースコールを押す方への対応をどうしたらいいでしょうか」

 

日中も多いそうですが、まあなんとかなります。

問題は、スタッフが1人になる夜勤帯のことだと言われます。

 

待ってもらうことはあっても必ず行って要望に応じているし、

きつい言い方になったりしないようスタッフは気をつけてくれていると信じている、

しかしスタッフの忍耐力にも限界がある・・・このようお話でした。

 

 

さあ、どうしましょう。

 

「その方の状況で何か心当たりはありませんか?」 というあたりから、お話を聞きました。

 

お聞きしていくうちに、お年寄り本人への『理解』は進みました。

 

「たいした用事でもないのに、頻回に押して私たちを困らせている人」 

 ↓

「やり場のない心と体で、ナースコールを握り締めている人」

 

 

だいぶ近づいてきました。

けれど、そこにあるのは、「あなたたち」と「私たち」のような気がしました。

 

その方の境遇や気持ちを 『共感的に理解して受容する』態度で、

「どうされましたか?」 と言えばそれでよいのか。

 

これは、ナースコールの捉え方を私たちが変えなければならないのではないのか。

 

思い出したのは、三好春樹著『関係障害論』(雲母書房)に書かれていた、「純粋ナースコール」の話でした。

ナースコールは、スタッフを呼ぶための道具として説明されます。

「何かあったら呼んでくださいね」

 

呼ばれたほうは、「どうされましたか?」と応じます。

あるいは、「トイレかな?」と予測しながら応じることもあります。

 

なので、病院だったら、用もないのに押したら“問題行動”です。

介護は、それをひっくりかえします。

 

 

『関係障害論』の「純粋ナースコール」から引用します。

 

私たちは、こうした“用のないナースコール”のことを<純粋ナースコール>と呼んでいる。

ふつうナースコールは、何か用があって職員を呼んでもらうための手段である。

ところが、このナースコールは手段ではない。

ナースコールによって職員が来ること自体が目的なのだ。 

 (中略)

彼らは、用のためにナースコールを押すのではない。

“関係”を求めて押すのである。

 

 

つまり、「私という要介護老人」と「介護スタッフというあなた」はどういう関係なのですか?という、老人からの問いかけなのではないか。

 

「やり場のない心と体でナースコールを握り締めている人」にとって、

部屋にやってくるスタッフは、単に「要望に応えてくれる人」ではないのです。

「私という要介護老人」が、今も確かに、人間関係のなかで生きていることを具体的に示してくれる人なのです。

 

 

この「純粋ナースコール」のことをお伝えして、

その方とスタッフとの間に新たな関係を築いていく方法を考えました。

 

放置したら「虐待」になるかもしれない・・・

不安で寂しいのだから仕方ない・・・

というスタンスからの脱却です。

 

「頻回に鳴らされて困っているナースコール」から、

「純粋ナースコール」への価値の転換です。

 

相談者は、「用がなくても部屋に行く」という試みをやってみることにしました。

まずは、日中からですね。

そのうち、できれば、夜勤スタッフもちょっとした合間に顔を見せに行けるといいなあ。

用がなくても来てくれる、という感覚をお年よりが持ってくれるといいなあ。

 

 

必ず上手くいくという保障はないのだけれど。