わからなさにつきあう

介護塾③は、「高知ノーリフトケア研修報告会」への参加報告をしたあと、「わからなさにつきあう」というテーマで語り合いました。

昨年の「傾聴スキルアップ講座」のあと、「認知症の利用者に傾聴しても何も変わらない気がする」という声が届きました。

「おお、それはいいところに気づきましたね!」ということで、今回のテーマとなりました。

介護塾は、土曜の夜と日曜の午後、同じテーマで2回開催しています。

都合に合わせて参加しやすいという声もあり、今後もこのスタイルで継続してみようと思っています。

次回は、5月13日(土)&14日(日)の予定です。

少人数なので、心ゆくまで話し合うことができます。

参加者同士で刺激しあって、それぞれの思いが存分に語られます。

私も、介護の現場や家族の生の声に刺激をもらいながら語ることができます。

感謝です。

 

さて今回は、西川勝さんの『ためらいの看護』(岩波書店)をテキストにしました。

おりに触れて開く、私の大切な一冊です。

 

そもそも認知症高齢者を「傾聴」することで何を得ようとしているのか。

落ち着いてもらうため?

相手を理解するため?

それって、けっこう上から目線の「傾聴」かもしれませんね。

 

人を「理解する」とは、そもそもどういうことなのか。

「話さないとわからないけど、話したからってわかるものでもない」

これって、日常の人間関係なら「そうだよねえ」と合点がいきます。

 

ところが介護や看護の場面になると、「わからない」がダメなことになってしまう。

 

「専門用語」という記号を使うことで、わかったつもりにしていないだろうか。

わかったような気で、勝手なストーリーを作って「つじつま合わせ」をしていないだろうか。

 

 

認知症高齢者の理解しがたい振る舞いを「問題行動」として捉えるのではなく、

その人の生活史や心理から文脈的に理解しようというアプローチは一定の意味がある。

けれども、そこには理解する側の解釈という操作が加えられた限界があるのもたしかだ。

『ためらいの看護』P104より

 

 

こちらの「解釈」によって「理解」したつもりで行うかかわりは、

実は「つじつま合わせ」にすぎないのではないか。

 

介護者が認知症高齢者に感じる「わからなさ」を、

「自分のことだってよくわからないのに、そんなに簡単にわかりあえるわけないよね」

というように包みこんでしまえたらいいな。

 

わかったようなつもりの「つじつま合わせ」でやり過ごすのではなく、

どうしようもない「わからなさ」を持ったまま、その場をなんとかしのいでいく。

 

パッチングケアについて、引用します。

『ためらいの看護』P122~124より

 

「格別の意味」を求めない「普通のケア」は、閉鎖したケアの関係をかたちづくらない。

隙間だらけの、つぎはぎである。

 

人はさまざまな関係の網目の中生きている。

何か助けが必要になったときにも、すべてを完全に与えてくれる全能者など必要はないのだ。

すべてを与えてくれる者は、すべてを奪う者でもある。

普通のケアは、たくさんの人からケアのかけらをパッチングされることで成り立つ。

 

パッチングケアは、相手を息苦しく包み込んでしまわない。

小さなケアが、それぞれの意図を超えた模様をパッチングしている。

こんなケアの光景をもっと大切にすることが、相手を理解や操作で翻弄しないケアになる。

 

認知症高齢者に落ち着いてもらうためや「理解」するために、『傾聴』を使うのではありません。

 

非言語メッセージを観察し、それに合わせてみる。

話の内容は「理解」できなくても、その表情から何かを受け取って相づちを打ってみる。

一緒に同じほうを見て、五感を働かせてみる。

 

「わからなさ」につきあい、一緒にいることならできる。

 

わかったような気になって、認知症高齢者の言動に「格別の意味」を与えなくてもいい。

わかったような気になると、大切な何かを奪ってしまいかねない。

 

わかろうとしてもなお、わからないものはわからない。

だって、人間同士だから。